Vol.006・地元の少年野球チーム

<話し手>

左右田

半藤 学/「北信シニア」保護者会会長

半藤 槙さん
こういう状況の時に、野球やってる場合じゃねえ、って。
前田:今の現状はどんな感じですか? 長野市としての、水害の復興状態は。
左右田:川が決壊した場所はかなり復旧されていて、崩れないように堤防が造られています。それと、河川の深さをもうちょっと深くしてる。住宅に関しては、手がつかないところもまだ多々ありますけど、どんどん工事はしていってて。畳の工事に関していえば、多いんじゃないかな。ただね、3分の1くらいかな、もっと少ないくらいかな、(住民が)もう出てっちゃってる。
前田:え?
左右田:その場所を捨てて、違うところに引っ越してしまったりっていうのは結構あるみたいですよ。
前田:じゃあ人口、減っているんですね……。当時、半藤くんのおうちは大丈夫だったんですか。
半藤(槙):津波が家の近くまで来ていて、焦りました。
前田:そっかあ……。左右田さんのところも、津波がすぐ近くまで来ていたんだっけ。
左右田:うちはもっと離れていて、家から歩いていける歩道のほうまで来ていました。犬の散歩コース、のあたりまで。でも、決壊して町が水浸しになるのなんて初めてだったので。朝、見に行ったんですよね、川の尾根のところを。そうしたら、「これはまずいんじゃねえの」っていうのが一番最初の印象だった。それで、あとでニュースを見て、「ああ、酷えことになっているんだな」と。
前田:ううん……、なるほどね……。災害発生後、避難所を早い段階でまわったじゃないですか。あのとき、避難所はすごい人だった?
左右田:うんとね、市の方と連絡を一度取って、畳が要るか要らないかという話をしに行った時はごった返していましたね。泥だらけにもなってたし。みんな、泥まみれの靴で行きますんでね。ただ、実際問題、何枚の畳が必要だろうとなったときにーーー市から要請を受けた何千枚という数は、そんなに、いらないんじゃないかと。もう一度見まわりに向かったときには、避難している人はだいぶ少なくなっていたかな。
前田:あのとき、何千枚という話だったよね。
左右田:そうそう。最初は体育館の床前面に畳を敷くという計算になっていたので。「今の状況をみながら僕の方でも勘定します。どちらの避難所を見ればいいですか」という話をして。避難所を見て回り、何人が入っていらっしゃるかを聞いて、1人1枚の数で計算していった。そうすると、590枚ほど必要だ、となって。
前田:野球チームの少年たちに、畳を運ぶ手伝いをお願いしようとなったのは、どういうきっかけで?
左右田:まず、お届けする畳を、長野で作れる畳屋は作る。足りないぶんは、山梨・岐阜・愛知の畳店メンバーにお願いして持って来てもらう、ということに決まりました。それで、その畳たちが入って来たら次の日、避難所へ運ぶんですけどね。人員も数いっぱいってわけじゃなかったから、集めた車へ畳を乗っけてるときに、この車には何枚積めるとか、うまくいくような割り振りをして。
前田:ええ。
左右田:そうしているとき、半藤(学)くんが子どもたちに声をかけてみてくれて。この災害で、子どもたちも野球の練習ができなくなっていたので。
前田:半藤くん、避難所に畳を運んだ時は、みんなどんな感じだったのかな。
半藤(槙):そうですね……みんな、地域の助けになれたらっていう気持ちで運んでましたね。
前田:その避難所には友だちもいたの?
半藤(学):ひとり、同じチームの子が、畳を運んだ場所とは別の避難所に数日行っていて。床下浸水だったようなので、2~3日くらいで戻れたようですが。
前田:そうでしたか。
半藤(学):こういう状況の時に野球やってる場合じゃねえ、っていうのがみんなあったと思うので。自分たちでなにかできることはないかって模索してるなかで、このプロジェクトが実際に畳を避難所へ運ぶとなったときに、じゃあぜひ子どもたちに手伝ってもらおうっていうことで。
左右田:ただ、車の都合で一緒に行くことができないから、「現地集合、現地解散でもいいかなぁ」って聞いたんですよ。そうしたら半藤(学)くんが、「保護者の方がそこまで乗せていってくれるから大丈夫だよ」って、それぞれの子どもさんの保護者の方で、動ける方は車を動かしてくれて。
前田:そうか。ご家族の方も協力的だったんですね。子どもさんを送ってくださって。そのとき子どもたちは何人くらいだったんですか?
半藤(槙):10人くらいですね。
前田:畳は重かった?
半藤(槙):そんなに重くなかったです。1人で持ちましたね。簡単に運べました。
前田:避難所はいくつ廻ってもらいましたか。
半藤(学):ひとつだけです。総合レクリエーションセンターですね。避難者の方はいなくて、救援物資とかをまとめて置いてある場所で。畳200枚くらい運びました、大人と子どもで、バケツリレーみたいな感じで。
左右田:あっちもこっちもお願いするわけにはいかなかったので、ある程度の人員がいて、みんなで規律を守りながら各々搬入できるのがレクリエーションセンターだなと考えて。畳を持って行って、合流した子どもたちと畳をおろして解散しました。あとの細かくまわるところは畳屋で。
前田:作業の時間的には、どれくらいかかりました?
半藤(学):30分かかってないですね。
前田:おお、10人でやると早いね!みんな鍛えてるし。
左右田:僕ら畳屋だけでわさわさやるよりも、「野球もできないんだし、子どもたちに声かけてみるわ」って言ってもらえたのはありがたかったですね。
前田:そうですね。それに、畳を届けるのが畳店だけではなくて、地域の人たちと一緒にできるっていうのは、本当、いい形だったなあっていうふうに思います。半藤くん(槙)、ありがとうね、ほんとうに。
(対談:2020年06月)
あとがき
『畳屋という生業をもつ私たちに、できることは何だろう。』
プロジェクト発足依頼、毎年のように災害が起こっています。支援物資も改良が進み、より衛生的で適切なものが届けられています。そんな避難所の変化も感じながら、当プロジェクトは私達にできることを常に模索・実践してきました。現在、新型コロナウィルスによって私達の日常生活に新たな変化が求められています。この状況下、避難所の運営はどうなっていくのか。私達にできることは、畳を作り、お届けすること(仲間から受け取ること)。でも最大の強みは、全国にその地で長年、畳屋という生業を続けてきた仲間がいることだとも思っています。報道の対象となる大きな避難所だけでなく、報道されず物資が行き届かない避難所の近くにも私達はいます。「あの時、畳があったなら、添い寝をしながらオッパイをあげることができたのに 」。そんな方……が一人でもいらっしゃる限り、お役に立ちたい。私達は なにかあったとき物資を送り付“けるだけの団体 ではなく、避難所へ向かい、畳店の視点で最初から最後までできること”を提案し、被災地の方とも一緒に考えます。それはこの困難な状況でも変わりません。そして畳をお届けする以外でも、私達にできることは尽きないように思います。この変化の波及のなかですぐに結論を出してしまうのではなく、これからも全国のメンバーで考え、行動しながら、模索を続けていきます。私達が発動する必要のない形態に、全ての避難所がなるその時まで。
(事務局長・発起人 前田敏康)


