Vol.008・村上夫妻 村上豪英(村上工務店・神戸)・藤岡章子(龍谷大学教授)

対談・インタビュー

自分が背負って走れる単位。
きめ細やかな動き。

阪神・淡路大震災の際に、避難所をひとつひとつまわりながら物資を届けるボランティア活動に参加していらっしゃった村上夫妻。以降、街のために何ができるかを考え続け、様々なプロジェクトを運営されています。当プロジェクト事務局長・前田が震災当時の活動や現在の想いを伺いました。


前田:お二人が大学生時代に阪神・淡路大震災が起こり、ボランティア活動をされてたんですよね。

村上:震災が起きてすぐは大学のある京都から神戸の父親の会社に戻って自分ができることをやっていたのですが、だんだん緊急性の高いことがなくなってきて。まだ他に自分ができることがあるんじゃないかと思ってたときに京都新聞に掲載されたボランティア募集の記事を見つけたんです。

藤岡:私もこの新聞記事を見て。私の方が2週間ほど早く入りましたが、私たちが入った時期は震災から1ヶ月は経っていました。それでもまだ人が足りていない状態でした。

前田:ボランティア元年と呼ばれた時代ですね。どんな活動をされてたのでしょうか?

藤岡:神戸の中心地、三宮にこうべ市民福祉交流センターがあって、そこで全国から運ばれてきた物資を仕分けして市内の各避難所に運ぶという作業が行われていました。我々が関わっていたのは、その建物の別の階に入っていたNPOの団体の方です。センターから物資を分けてもらって公的ではない避難所に届けるという役目を果たしていました。

村上:当時、公的な避難所に行ってない人がいっぱいいたんです。例えばですけど、駒ヶ林のベトナムの方達が公園に集まっていたり、あるおじさんは普段偉そうにしていたから避難所にいったら自分がいじめられるんじゃないかと不安で行けなかったり。そういう方達には公的な物資が届かない。センターは「避難所に物資を届ける」というのが基本的な仕組みだったので、避難所を拒否する人には届けられるシステムもなければ実際に手も回ってなかったんです。

前田:行政は大きい仕組みを作らないといけない立場ですもんね。

村上:そうなんです、もちろんそれも必要で。でもそれだけだとどうしても細かい対応ができない。例えば20箇所の避難所があったとして、20箇所に200人ずつで4000個ほどの物資が必要なのに、4000個に満たない物資がたくさんある。そうするとセンターのほうでは避難所に持っていけないから究極ゴミになるわけです。でもこっちにはそれを必要としている人がいるのもわかっている。だから我々はそれを持っていく役割だった。

前田:でも公的ではない避難所にいる方たちは把握が難しいですよね。どうされてたんですか?

藤岡:リュックかついで回りましたね。ピンポン押してまわったり、人が集まっているところがあれば、物資足りてますか?って声かけて。メモを持って聞いて回って、それをみんなで共有していました。

前田:まさに人海戦術、、、!

藤岡:そうですね。あとは仕分けもなかなか大変で。全国のみなさんは「困ってるやろう」というお気持ちだったんだと思うのですが、高級カメラから汚れた下着まで送られてきてましたね。

前田:緊迫感を持って求められる状況でした?

藤岡:震災から1ヶ月後だったので、命に関わることはなかったですけど、それでも「地震の日から2ヶ月下着変えてないねん」という方もいらっしゃって、下着持って行ったり、乾電池が足りないとかガスコンロがないとか、命には関わらないけれど、生活していく上で成り立たない細々した要望というのはありました。

前田:ボランティアに来ている人たちは全国から?

藤岡:静岡や、千葉のほうからも来ていましたね。学生が一番多かったです。朝7時に出されたパンを食べて、8時から活動して夜の20時には振り返り会をして、2時くらいに寝る、という毎日で。1週間ぐらいお風呂入らずにがんばって、家帰って、また頑張る、という感じでした。
でもボランティアやってるとシンクロしすぎて、被災者みたいな気分になってしまうというか、やつれていくんです。悲壮な感じになって、テントのおばちゃんに「あんたら食べてへんのちゃう?食べさせてあげるわ」ってご馳走されたりもしました。そんな感じなので、最初のほうに入った人がつぶれちゃって燃え尽きてしまう。それをまた他の人が引き継いで、引き継いで。カオスでした。

前田:わかります。私も避難所に行かせていただいた時に、ボランティアが目立ってはいけないんじゃないかとか、不謹慎な言動をしていないか、色々気になったりして。正解はないんでしょうけどね。

村上:正解があることの方が少ない。あの震災の時も、その後もそうですが、地元の自治体とかが、受け入れ体制ができてないから、ボランティアを出さないでください、ということがあるじゃないですか。でも僕はそれはどうかと。全部きれいに整理整頓したものがシステマチックに配給できるわけではなくて。行政のような秩序立った大きなベースがありつつも、そこで網羅できないこともあって、そこにはゲリラ部隊がいかないといけない。なんかいろんな方が自由な発想で活動する。その方がいいんちゃうかなって思うんですよね。もちろん迷惑かけないようにしながらね。

前田:村上さんとは主催されてらっしゃる「神戸モトマチ大学」にお声がけいただいたことが知り合うきっかけでした。あの活動はなぜはじめられたんですか?

村上:「神戸モトマチ大学」は神戸のまちや世界で活躍する人に話をしてもらい、学びから人の輪を生み出したいと始めたプロジェクトです。立ち上げたきっかけは東日本大震災。震災発生後5日目ぐらいには仙台に行ってボランティア活動をしてたんですけども、2、3週間経ち、現場の様子が落ち着いてくると、地元の経営者の方々から「復旧は進んだとしても復興はできるんでしょうか?」と経済活動への不安の声が出てきたんです。「神戸の復興をどうしたのか教えてほしい」と言われて、そこに自分が全く答えられなかった。
阪神・淡路大震災の時は町が壊れていくのが悲しくて、人が死ぬのが悲しくて、町の復興のために自分ができることは何かないかなと一生懸命考えたけども、2011年になってみたときに、自分は何もしてこなかったんだと。今からでも自分の町のためにするべきことはないか、と考えたのがはじまりで、人と人が繋がって力を発揮するようなきっかけとなる「まちの勉強の場」みたいなものはつくれるかなと「神戸モトマチ大学」を始めました。

前田:村上さんは青年会議所にも所属されていたから、いろんなネットワークっていうのは、もう既にあったと思うんです。また別に集まる機会を作られたのは、限られた人たちだけではなく、という思いですか。

村上:そうですね。町にはいろいろ活動して頑張ってるコミュニティがいっぱいある。でもコミュニティの中と外に壁ができるんです。コミュニティってそういう場。例えば何にもコミュニティに入ってない人が、身寄りがなくて相談する人もいないとか家族いないとか遠いとか、そいういう人がコミュニティを欲しているのはもちろんだと思うんですけど、この町に足りないのはコミュニティではなくて、ソサエティというか。コミュニティごとにがんばっている人たちがいて、お互いのことを知らないがゆえに心の中で反発している、そういうのではなくて、いろいろ頑張ってる人たちがお互いに知り合って、協力できるような町にできると、ちっちゃい町ながらできることがあるんじゃないかなと。
だからあえて「神戸モトマチ大学」はコミュニティができないようにしていた。他人の集まりはそう見えてしまうものなので難しいですけどね。なるべくそうならないように努力をしてきたつもりです。

前田:そこからアーバンピクニック(*1)、ストリートテーブル(*2)、そして今日お邪魔しているNature Studio(*3)と、次々とこの街でプロジェクトを手がけてらっしゃいます。

村上:どのプロジェクトも最初は自分の頭の中に「こうすればもっとこの町はよくなるんじゃないか」という思いがあって、少しだけアンテナを立ててたら「ひょっとしてやります?」って奇跡みたいにお声がかかって。ここでこの打席に立たなかったら後悔するんじゃないかと。だから力不足かもしれないけど、手を挙げました。

前田:ほんとに「この町をもっと良くしたい」というのが原動力なんですね。

村上:きっとみんなそうなんじゃないかなって僕は思いますけどね。人間って自分の暮らしている地域にちょっと手をいれて良くしていこうとしたいもんなんじゃないかな。

前田:確かに。でも自分も含めて、その「良くなったらいいな」を行政に頼りがちだと思うんですよね。

村上:自分たちの町のことを人任せに考えているのは、歴史上で考えるとほんの数十年のことなんじゃないかと思うんです。それまではずっとみんなでやってきたんじゃないかな。自分にとって、実際に地域に働きかけをはじめるきっかけとなったのが、阪神・淡路大震災ってことも間違いないですが。

前田:なるほど。

村上:だからね、どのプロジェクトも行政に聞かれて提案はしたんですけど、全部ひょっとしたら自分でもできるかもしれないって思うことを提案したんですね。行政は立場上、失敗できないし、すぐに結果も求められるし。だから、失敗や時間がかかる可能性があることは民間がすべきだと思ってます。おこがましいかもしれませんけど。

前田:先ほどの阪神・淡路大震災の時のボランティア活動の話にもありましたよね。表現は難しいけど、やっぱり民の力も必要だということですよね。色々と活動されてきて、東北で答えられなかったという質問に今だったら少し答えられる気がしますか。

村上:わからないんですけど、多分、復興みたいな活動と一般的な町の活性化が、全然違うものではない気がしています。「本質的にその町のために何をするか」かなと。ただ、これまでは「神戸は」ということを考えることが多かったんですけど、「神戸は」という単位は大きすぎるなと感じて、今は自分ができるプロジェクト単位でものを見るようにしています。例えば東遊園地が良くなったらいいのにな、そうなると、神戸にとっていいものになるだろうなと。

前田:でもこれだけ活動されてきていたら、行政や団体とかから一緒にやりましょう、って声がかかることもあると思うのですが。

村上:確かに前はそういう発想もあったんですよ。例えば、商工会議所と神戸大学と神戸市役所が一緒に考えたりすると何かおもしろいことできるんじゃないかと思って、そういうプラットフォームを作るために走りまわったこともあります。でもそういうのはうまくいかなかった。だから自分が背負って走れる、プロジェクト単位で活動して、町に、社会に、ポジティブな影響を与えられたらいいなというところに今は集中しています。
このNature Studio は、廃校した小学校の利活用として募集があって、手を挙げて選ばれたわけですが、今までにない形をやろうと、クラフトビールのブルワリーを作ったんです。それはこの地域にとってもいいし、他の地域も参考になるかなって。そうしたら近所の人がこんなに喜んでくれるかっていうくらい喜んでくれたのは驚きでしたけどね。

前田:立場を考えるとなかなか行政ではできない取り組みだと思います。今日お話を伺って、「行政の大きな仕組み」と「民の力」のどちらもが必要なんだと改めて感じました。

村上:どこの地域が優れている、とかじゃない。神戸の人は神戸を愛していて、同じように他の地域の人たちは自分たちの地域を愛していて。みんながそれぞれ地域のために頑張っている。私はそう思っています。

(*2) ストリートテーブル: 「StreetTable 三ノ宮」。再開発が進むJR三ノ宮駅前の三宮ターミナルビル跡地に暫定利用する形としてできた期間限定の屋外スペース。JR西日本からの依頼のもと、村上さんが代表を務める一般社団法人リバブルシティイニシアティブが主催した。コロナ禍での飲食店やライブハウスの収益の機会を創出しようと神戸市内の飲食店によるフードスタンドと特設ステージを設置し、2020年12月から2021年11月まで実施された。

あとがき

『規律と自由のギリギリを』

ボランティア元年といわれた阪神淡路大震災。
あのときだけに限ったことではないですが、頼ってしまえるようなルールもまだ無く、もちろん正解も無い。
そんな当時に自分たちの足で避難所(者)を見つけ、回り、仕分けをしながら、必要な場所へ必要なものを受け取られた。公平を考えるとゴミにせざるを得ないものを自分たちの観点・判断で有意義に分配できることもあれば、意見が合わず仲間と言い合ったりすることもあったとか。はからずとも規律と自由のギリギリを”当たり前”という尺度で進むことが、結果としてより良い暮らしにつながっていく。
遠くて大きな情報や規制に右往左往しがちな現在にいて、村上さんの『人間って自分の暮らしている地域にちょっと手を入れて良くしていこうとしたいもんじゃないかな』というシンプルな言葉が改めて強く深く響きます。

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